今年も京都大学で超交流会が開かれた。京大の情報学研究科の同窓会だというのに、なぜか情報学どころか、京大にさえ関係ない人でも誰でも参加できるという、いったいなにが同窓会なのかよく分からない懐の深いイベントである。
だいたい、「誰でも参加できる同窓会」というコンセプトが意味不明すぎる。言葉の定義的に間違っている。
誰がそんな事を始めたかというと、クエステトラの今村さんだ。同窓会の幹事になったけど、全く人が集まらないので誰でも参加できるイベントにしよう、と考えたらしい。ぶっ飛んでいる。いいじゃん、やっちゃえ、ってなノリで始めてしまった。
しかし世の中不思議なもので、そのぶっ飛び具合いにこれまたうまい具合いに反応してしまう人がいる。その筆頭がプロフェッショナルコネクターの勝屋さんだ。勝屋さんは僕に人付き合いの大切な事を教えてくれた方だ。歩くパワースポットである。ポジティブなパワーを発する人間や場所を見つけては寄っていき、どんどんつなげてしまう。恐ろしい磁力の持ち主だ。ここまで来るともはや驚くこともないが、当然のように情報学にも京都大学にもまるで関係がない。
今村さんや勝屋さんがあれこれ動き回るうちに、超交流会はどんどん増殖を始めた。過去五年の登壇者を見ると豪華なメンバーが揃っている。参加者が500人を超えたとかという話も聞いた。
そして今年の超交流会である。今年は純度が高かった。あるのかないのか分からないが、僕が勝手に感じている超交流会の流れというか、思想というか、文化みたいなものに見事にマッチする人たちが集まった。多分二人の歩くパワースポットが引き寄せたのだろう。
形式としてはカンファレンスのような事をやっている。朝からホールでパネルディスカッションのようなものが一日続き、最後に懇親会があって終わり。パネルディスカッション?いや、なんかちょっと違う。あれはなんと呼べば良いのだろうか。ディスカッション?雑談?飲み会?まあなんでも良いや。
とにかく一応タイトルのついたセッションが午前午後で四つほど続いて、それぞれのテーマに沿った議論みたいなことをしている。突然観客が壇上に呼ばれて、登壇者が増えて行くのはよくあることだ。面白そうな話をしそうな人は舞台に引っ張り上げられる。だんだん誰のセッションか分からなくなっていく。会場の質問者には舞台の上から柔らかいボールが投げられ、頭上をボールが飛び交ったりする。ボールを投げる勝屋さんがノーコンなので、まるで関係のない観客のところに飛んでいき、客はボールを拾って正しい質問者の方へボールを投げたりしなくちゃいけない。勝屋さんは、ボールがあるとパワーが届く感じがして良いよね、って言っていた。様子をみているとそれなりに同意できるが、そのあとにマイクを持って結局質問者のところに駆け寄っていくのだから、ボールに意味があるのか、ということは誰もが一度は抱く疑問である。しかしそれも愚問だ。パワーは伝わるのだ。
そしてセッションである。ロボットを作っている石黒先生は、資本が価値である資本主義のあとには、知識が価値となる世界が来て、そのあとに愛が価値となる世界が来るだろうと言った。資本や知識のように、相対的に多いか少ないかを比べられるものから、自分自身で感じる幸福感のような絶対的な尺度の重要性が高まっていくのではないかと語った。石黒先生はロボットを研究しているのではなくて、ロボットを作りながら人間を研究しているのだ。
僕は人間の心がちゃんと科学的に解明されていないから、幸福度は絶対評価になってしまうが、心が解明されればそれも相対価値に転嫁するのではないですかと質問した。そうしたら石黒先生が、そこはこれから一番面白いところで、特に五人くらいの集団が集まった時に、心に何が起こっているのかはぜひ調べるべきだとお話されていた。そういえば心理学は、個別の人間一人一人に着目しすぎなのかもしれない。
その次がボールが飛び交う勝屋さんセッションである。心をオープンに持って、いろんな人とつながりましょう、という話だった。誰と付き合うかを打算的に決めちゃダメだ、ちゃんと心を開けて、純粋に面白いと思う人と積極的に付き合おうぜ、って言っていた(気がする)。だいたい、付き合うと自分が得か損か、という考えが、次元が低すぎるし、そういう考えをしている時点でそもそもあなた自身が人間的に全く魅力的じゃないよ、ってことなんでしょう。同意です。
最初のセッションで濱口さんがうまいこと仰っていて、人間は世界をタグ付けして見ている、と言っていた。机の上の水の入ったペットボトルの事を考えなくて良いのは、それが自分には害を及ぼさない単なる水である、と自分の中でタグ付けして見ているからで、人間はそうやって世の中を単純化して見ることで、考えるべきことに思考を集中させる事ができるのである、というわけだ。濱口さんが口を開くと、いきなり世界が整理されて見えてくる。どんな魔法があるのかと思うくらいに整理される。マジシャンみたいな人だ。
終わったあとの懇親会で若い大学生と話していたら、どうやったら彼女ができるんですか、と質問して来た男子学生がいた。逆になんで彼女ができないの?って質問したら、僕は今時の女子大生とは合わないんですよね、って言い始めた。うわ、タグ付けきたぞこれ!って思った僕は、ここぞとばかりにタグ付けの話を持ち出した。もしもし君ねえ、そうやってちゃんと付き合った事もないのに、大学にいる女性を全部まとめて今時の女子大生、とかって整理して、全部まとめて対象外だ、とかやってるから彼女ができないんだよ。それをタグ付けって言うの。もっと心をオープンに持って、一人一人の人間に真摯に向き合いなよ、そうしたら、気づかなかった良さが見えて来て、ぴったりの相手も見つかるからさ、と、さも自分で考えたかのように、その日導入したばかりの話でアドバイスをしてみた。なるほどー、って喜んでもらったので、まあ良かったのだろう。
話を戻して勝屋セッションだが、打算というのは石黒さんのいう資本主義だし相対価値の世界である。相手より自分の方がお金を持ちたい、知識を持ちたい。そういう競争を生き抜く上で、得になる事はやります、損する事はやりません。心を開けというのは、いやいやそんな細かい競争をするよりもっと大事で楽しい事があるでしょう、という絶対価値の話でつながった。
午後はどうしたらコミュニティが盛り上がるのかというセッションがあって、音頭を取る人がいて、フォロワーがいて、場所があって、共振が起こると盛り上がりますって事だった。共振って、朝石黒さんが話していた、集団の心理学の話と同じだ!
最後はゲーミフィケーションのセッションだったけど、水口さんは人間のウォンツを全部分解したい、って話していた。なんでも、ウォンツが見える水口メソッドなるものを開発したらしく、一日くらいウォンツに向き合うと、自分が本当は何をしたいのかが結構見えるようになるらしい。なかなかすごい。結局ゲームというのも、人の根源的な欲求を満たす要素がいくつか揃ったものが流行るわけで、そういう欲求を見つける事がゲーム作りの本質であるという事なのだろう。
スマホで毎日なめこを育てる人がいるのは、何かを育てるのが楽しいとか、びよーんって刈り取るのが気持ち良いとか、そういう人間に共通するウォンツが潜んでいるんだよ、って事だった。マクルーハンという人が、メディアは身体の拡張だ、と話して、自動車や飛行機は足の拡張で、早く移動したいという人間のウォンツを拡張しているんだ、って事らしい。これも、もはや人間ってなんなんだ、って話ですね。
それでいろいろテーマはあるんだけど、全部の話がちゃんとつながっていた。結局人間っていったいなんなんだよ、僕たち全くわかってないし、これまで分かっていることだけで世界を見るのは危険すぎるよね。だいたい、大切なのは金儲けより愛だろ、愛!という感じでしょうか、まとめると。
前日に登壇者と運営メンバーで集まって前夜祭したら、みんな、ただいま!って顔で集まってきて、妙なテンションだった。水口さんがそれをうまいこと表現していて、みんな小学生になっちゃったね、って言っていたけど、本当にその通りだった。同窓会が盛り上がらないのを見るに見かねて、だったらこの同窓会を、みんなの同窓会にしてしまえ、と解放してくれた今村さんの気持ちに共振した人たちが集まる、新しい形の同窓会がそこにあった。